すやすや生活日記

専業主婦が日々を記録するブログ

自死(自殺)遺族の立ち直り方

私は20代前半の頃、妹を自殺で亡くした。

昔は妹を思い出して涙することもあったが、今はもう日常生活で思い出すことはほぼ無いし、話を振られても思い出して泣いてしまう、みたいなことは無い。

時々妹が夢に出てくることがあり、この前なんて夢の中で「こうやって首つるんだよ」と首吊りの実演をされてビビったが、起きて10分後には忘れて日常生活を送れるくらいだ。

 

亡くなって1年後くらいに、1度だけ自死遺族の会に参加したことがある。

そこでは、亡くなって10年経つのに話しながら号泣する人がいて、というか、そういう人ばかりで(そういう会に参加する人なんだから当たり前かも)

立ち直れず苦しむ人は多いのかもしれないという印象があった。

 

今日は、自死遺族であり、自身も自殺未遂を経験したので自殺する側の気持ちもちょっと分かる私が、自死遺族の立ち直り方を考えてみた。

 

 

思い出さない自分を責めるのをやめよう

亡くなってしばらくたつと、だんだんその人を思い出す頻度が少なくなる。

それはすごく自然なことなのに、思い出さない自分が薄情に感じ、罪悪感を覚える人がいるらしい(私にはこの感覚はないが理解はできる)

この罪悪感の正体は2つあると思う。

1. あの世に行った自殺者が「もう忘れちゃったの?」と悲しむ気がする

2. 自殺者をいつまでも忘れないような愛情深い自分でありたいと思っている

 

忘却は立ち直るために必須なのに、それを妨げる罪悪感があるのはよくない。

思い出しても死んだ人はよみがえらないし、死者はすでに灰になっており感情はない。(ここら辺の考え方は、特定の宗教を信じている人には受け入れられないかもしれないが・・・)

そして、死んだ人の人生はそこでストップするが、こちとら残された者は人生まだ生きていかなければならないわけで。

家族が自殺した出来事によって、残された者がさらに不幸になる必要はない。

私はいつも、生き残った者の幸福の最大化を図るのが優先だと思っている。

私の親と祖父母は、妹の自殺後、誰の教育が悪かったとか、あれが悪影響だったとか、お互いに自殺の責任の押し付け合いをしている。

そんなこと考えたって誰も幸せにならない。やめればいいのにと思うが、年寄りの喧嘩は若い者には止められないらしい。

 

 

人生の選択の責任は本人にある

自殺者する人は、死は救済だと思っている。

死んで無になれば、悩みも無になるからだ。

その人生の選択をせざるを得なかったのは、とてもとても悲しいことだ。

しかし、その選択の責任が本人にあることを忘れてはいけない。

 

死んでからしばらくは、「あの時こう言えば良かった」とか「あの時こうすれば死なずにすんだ」とか、タラレバの救済案が頭から離れないと思う。

特に「私のせいじゃないか」と思うと非常に苦しい感情に襲われるであろう。

自殺の原因は以下の式で表すことができる。

自殺しやすさ = 本人の性格 × 周りの環境

本人の性格も、周りの環境も、誰か一人が決定できるものではない。

自死遺族は「周りの環境」の一つの要素にはなっているが、それで「死んだのは私のせいだ」と、すべての原因が自分にあるかのように考える必要はない。

自分という変数がベストを尽くしたところで、他の変数がダメなので結局自殺する場合だってある。

だから、自殺の原因を求めることに意味はないのでやめよう。

 

自殺未遂して走馬灯を見た時のことを思い出すと、あの時は自分が楽になることしか考えていなかった。

だからむしろ、亡くなった家族に対して、自分勝手に人生のゲームリセットをしたことへの怒りを少々覚えるくらいが、立ち直るにはちょうどいい。

何を思ったって灰になった人間には何も届かないのだから、自分のメンタルが一番健康に保てる思考をしていこう。

 

 

とにかく、忘れるということが一番の薬なので、

思い出はそっと心のタンスにしまって、思い出す回数を減らしていこう。